Blog黒田院長のブログ

2022.04.22

031 恥

今日聴いていた音楽
ナタリー・ウッド(マーニ・ニクソン)‘Tonight‘ ウエストサイド物語 より

 私は人間の行動を規定する心理的構成要素の一つとして、恥の感覚がとても重要だと考えている。隠していたエロ本を親に見つけられ、顔を真っ赤にして否定する、あるいは同級生が苛められているのに自分も一緒にハブられるのが怖くて口をつぐんでしまう。何年経ってもひょんなきっかけで意識の表面に浮上し、恥ずかしさのあまりフヒャヒャと変な声が出てしまう、我が尊敬する吉行淳之介大兄が「ひゃっと叫んでろくろ首」と記したあの感覚だ。
 要するに、「これをやったら恥ずかしいかな?」という恐らく幼少期の教育や社会的規範、一般的常識からの刷り込みである。もしかしたら自分にとっての正義、と言い換えても良いかと思う。ま、エロ本みつかるのと正義をごちゃ混ぜにしてもいかんが、その、単なる例えとして受け取って欲しい。
 松永弾正という戦国武将が居た。彼は織田信長に逆らい誅されたが、最期にその当時名器と称えられた「平蜘蛛」という茶器を助命の対価として攻め手の佐久間信盛に差し出すよう言われ、
「平蜘蛛の釜と我が素っ首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と言って平蜘蛛共々自害したそうだ。私は中学生の頃にこの話を読んで、んー何となくこの人の死に様は恥ずかしいな、と思っていた。アンタが死んでも茶器は残るのに、国宝級の茶器に罪は無いんだから犠牲にしなくても良いじゃないかさ。平蜘蛛が棄損されたと聞いた織田信長は、頑固じじい最期までどうしようも無い男だ、そう呵呵大笑したと言い伝えられている。こりゃまあ何処からどう見ても信長が上手なのではないか。
 勿論私の恥の感覚は私個人の体験や記憶に根ざすものであって、きっと他の誰とも違う。私が恥と感じる行為をそう感じない人が居て良いのだし、逆に私が恥も外聞も感ぜずに取れる行動をとても恥ずかしいと感じる人が居て良いのだが、今日のニュースでまたぞろウクライナ情勢から、私の感覚では恥ずかしいと感じられた出来事が有った。出征しているロシア軍人の妻たちだという、ビクトリーシスターズと名付けられた二人組の女性ヴォーカルが戦意高揚を煽る軽快なポップソングに乗せて歌い、バックでは赤十字を額に掲げたダンサー達が、今やウクライナ侵略のイニシャルと化したZと、勝利のVを象った踊りを披露する。病院も学校も、老人や子供が居ようとお構いなくミサイル攻撃の的にした側の人々が赤十字を額に掲げて踊っているのは、もはや私の目にはタチの悪いブラックジョークとしか思えない。
 これは一体何だ? 我々は何を見せられているのか。まさかこの21世紀になって、目を覆うような残虐な戦争犯罪を現在進行形で犯している国から発せられた、前世紀の遺物みたいな衣装と古臭い振り付けで飾られたコテコテのプロパガンダを目にするとは。彼らはウクライナの現政権をネオナチと謗るが、この稚拙で事大主義なミュージックビデオこそまさしくゲッベルスが主導したナチスのプロパガンダそのもの、もしくは劣化コピーに見えてならないし、こんな仕事に携わるのは私にとっては恥だと感じるものだ。全体主義国家の間接的、または直接的な暴力によって支配される人々が本音を言えるワケも無いのは勿論理解しつつも、この戦争が終わった後に彼らが夜半に冷や汗と共に目覚めて恥の感覚に苛まれないか私は危惧し、もし彼らがそれでもぐっすりと眠れるのなら、自分と恥の感覚がここまで違う人々とお互いを尊重した対話や交渉が成り立つとは到底思えないのである。