Blog黒田院長のブログ
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2025.12.17
- 066 人間の領域
今日聴いていた音楽
Donald Fagen `I.G.Y`他新しい動画が公開されると必ず見たくなるユーチューバーの1人にThalasso hobbyer さんがいる。いわゆるジオラマ作家の方だが、この人の作る情景はまるで文明が崩壊した後の神殿を訪れるが如く、何処か懐かしいが荘厳で破滅的に美しく怖ろしい。数ヶ月から1年という長い更新期間なのも動画を見れば極めて納得、恐ろしく手間がかかっているからだ。つい先日公開された最新作も、その常軌を逸した完成度に思わず泣けてしまった。
私は自身の感動をもたらすセンサー感度を今後も鋭く保っていたいと願う者である。もちろん馬齢を重ねるごとに尿道や口角など身体のあちこちが緩むのと同じくしてこのセンサーが作動する閾値は年々下がり、些細な情景やちょっとした言葉の端々などに直ぐ涙腺が緩んでしまうのはやむを得ないのだが。流石に公共の場で号泣するような事態は避けたくても、トップガン・マーヴェリックであのヴァル・キルマーが出て来たシーンだとか、鬼滅の刃の煉獄さんが最後の悲壮な戦いに身を投じるラストだとか、映画館という公のスペースで嗚咽を抑えるのが必死な状況はホンマに勘弁して欲しい。考えてもみたまえ。白髪頭の還暦を超えた男が大泣きしている図は傍から見れば悪夢でしか無いだろうが。
さほどに鋭敏な、と自負するところの我が感動センサーであるが、昨今のAIが作り出す十分に精緻な画像や、何なら十分にリアルと認識出来る動画にはピクリとも反応しないのは何故なのか、このところそれをずっと疑問に感じている。4Kの精細かつ明快なCGで作られたとんでもなく情報量の多い映画などに食傷し、あまつさえ「これはコンピューターが作り出したフェイクである」と瞬時に防御壁をこさえてしまうのは一体どんな反応なのだろう。精緻を極めたCG画像の裏にきっと膨大なグラフィックエンジニアの時間が費やされていると頭では共感し理解しつつも、昔の東宝特撮映画に腹の奥底からシンパシーを覚えるのは何故なのか。歴代の素晴らしいスーツアクターが演じたゴジラに破壊され吹き飛ばされる農家の屋根瓦が一枚一枚手作業で貼り付けられていたとか、当時ハリウッドの特撮関係者が真面目に教えを乞いに来たと聞く円谷マジック、あの海戦シーンのやたらリアルな水柱とか、私はそっちによほど感動するのだ。つまるところ私はまだアナログ人間で、デジタルのもたらす二進法の未来に感情を明け渡してはいないのか、スカイネットにもマトリックスにも心を売り渡していないのかもしれない。一つ確からしい事は、私の感動センサーが恐らく背景に潜む膨大な人間臭い情熱、努力、狂気に感応しているのではないかという仮説で、これはあながち間違っていないのだろうと感じている。全盛期黒澤映画の異常な熱量やジブリ映画の作画に覚える畏怖、ポール・ゴーギャンの絵画から立ち昇る聖性、パブロ・カザルスのチェロから最初の一音で発せられる深い音楽性、やはりそこにはこの先幾らAIが学習して人間の感情を模倣したとしても辿り着けない、数理や方程式や半導体では解の出ない「人間の領域」ではないかと思う。
この先、AIは我々人間の及びもつかない速度でAI同士学習し、遠からず彼らなりの自我を獲得して人間臭い感情すら実装するだろう。進化を遂げた彼らの産み出す、彼らなりの情緒的アウトプットを私は見てみたい。それこそDonald Fagen `I.G.Y`に示されたような、我々人間という存在がやがてプログラムされた機械仕立ての知性に居場所を追われ淘汰される身なのかどうか、シンギュラリティと称されるその日その時が来たらはっきりするだろうから。
