Blog黒田院長のブログ

2024.08.09

054 漂えど沈まず

今日聴いていた音楽
ボビノ座のバルバラ Barbara 他

 今を去ること8年前のリオ五輪閉会式、東京への引き継ぎ式は本当にワクワクした。競技紹介の映像が世界最強クラスのポップカルチャーと未来を感じさせてくれるテクノロジーの融合でとにかくクールだった。それから世界はコロナに沈み、東京オリンピック本番の開会式、閉会式は何故か知らんが忘却の彼方にある。大友克洋氏の描いたネオ・トーキョーを縦横無尽に走る金田式バイクが見たかった。
 時はあっという間に流れてパリ・オリンピックが始まった。開会式を私はリアルタイムでは見ておらず、何が起きたのか確認しようにもオリンピックの公式サイトからも動画が削除されているようなので静止画で判断するしか無いのだが、世界中でかなり多くの人々が怒っていると知る。中でも物議を醸しているのは最後の晩餐を侮辱したと言われても仕方無い寸劇と、マリー・アントワネットと思しき女性が血の色を想起させるドレスを纏い生首を持って歌うパフォーマンスだったと。
最後の晩餐に関してはカトリック教徒の方々から痛烈な非難が飛んでいる様だ。あの青いオッサンは豊穣の神ディオニソスを模していたらしい。宗教画で見る分には半裸で腰布のみ纏っていても不自然では無いが、絵画でもアニメでも実写版でやられるとキツい。私は信心深い人間では無い仏教徒の端くれだが、例えばイスラム教徒が大切にしている宗教画をあんな演出で扱っていたらどうなったか、預言者ムハンマドを風刺したシャルリー・エブド社事件とその後の余波を目の当たりにした身としては想像するだに恐ろしい。今になって「いやアレは最後の晩餐を題材にしたのでは無くてですね」なんて言い訳しているようだが、あの構図じゃ無理筋過ぎだ。当然仕掛けた側も他宗教に仕掛けるのに比べてキリスト教徒なら大丈夫だろうと反発度合いを推し量った上でやっているに違いなく、そうで無ければダメージコントロールとしては稚拙過ぎる。
 生首を持った女性が歌う画像にも驚かされた。巷間言われているとおり、断頭台の露と消えた多くの女性たちの中で最も有名な王妃マリー・アントワネットがモチーフになっているのは確かなのだろうが、彼女が処刑されるまで最後の日々を過ごしたコンシエルジュリーでパフォーマンスさせるとは、君たち200年以上も経ってどんだけジャコバン派なのかと突っ込みたくなった。翻って我が邦で生首と言えば平将門公だが、祟りを怖れて大手町の将門塚を大事に保全している日本人としては些か心配にもなる。四谷怪談も牡丹灯籠も里見八犬伝も知らぬフランス人は祟りとか呪いとか我こそは玉梓の怨霊〜とか、とにかくそういう心配はしないのか。浪費を重ねて国庫を空にしたといってもアントワネット独りの所為じゃ無し、革命政府に抵抗してオーストリアと内通していたからフランス軍が負けたとか、まあこちらは非難されても仕方無いか、それでも稀代の悪女って程の悪業を重ねた女性だったのだろうか。私には王妃となるべく生まれ育ち、それ以外の生き方など出来なかったのに王権政治を葬るための生贄にされ、歴史に翻弄された一人の可哀想な女性だったとしか思えないのだが。少なくともハプスブルグ家とブルボン家の子孫並びに全オーストリア人はあの扱いに怒って良いと思うがな。ついでに最後の晩餐を愚弄されたイタリア人も。
 あんな露悪的パフォーマンスをスポーツと平和の祭典たるオリンピックの開会式にぶつけて来るフランス人の意図が私には旧型シトロエン車のぶっ飛んだデザインくらい分からない。表現やイデオロギーの自由を錦の御旗か黄門様の印籠みたいに振りかざし、誰かが大事にしている偶像をぶち壊しおちょくる。多様性や包摂性を訴えるならそんな手法を取らず、何なら既存のアイコンに頼らず未来をアピールすれば良かったと思うのだが、それでも過去との縁が必要ならマリー・アントワネットの代わりにナポレオンを、ドラァグクイーンの代わりにピンクパンサーを、映画はアメリカ資本かも知れんがクルーゾー警部はフランス人だから良いじゃあないか。歴史や伝統を題材にするなら世界中の多くの人々が認める文化的コンテンツがフランスには他に沢山有る筈だ。それこそリオ五輪の引き継ぎ式で日本のクリエイター陣が見事にやってのけたように。
 表題の「漂えど 沈まず」とは、パリ市の紋章にラテン語で記されている文言だそうだ。開高健氏の著作で知り、人生もそうあるべきだよなあ、と覚えていた。
ほんと頼むよパリ。トライアスロン選手の胃腸を犠牲にしてまでセーヌ川の百年河清を俟たずとも、今でも世界が羨む憧れの都じゃないか。でもな、、。これからまだ閉会式が有るんだぜ。