Blog黒田院長のブログ

2024.12.04

056 医師の偏在

 
今日聴いていた音楽
Duke Ellington Orchestra ‘The Great Paris Concert’ 他

 最近兵庫県知事選挙を巡る騒動をきっかけにまたぞろSNSの規制をすべし、という議論が巻き起こっているようだ。素朴な疑問として、規制を唱えておられる方々は一体どんな手段で制限をかけるおつもりなのだろう。特定の単語を検索して排除するなら、そりゃ何処の言論統制国家なのか。それとも選挙期間中は対象エリアのネット環境を遮断するの?
 今回の議論に接して思い浮かべた番組が有った。もう一ヶ月ほど前になるだろうか、帰宅してNHKのニュースを見ていたら表題の特集を放送していて、とにかく医師が偏在していて特に顕著なのは「地域の偏在」「診療科の偏在」であるとの内容だった。番組内では埼玉県秩父の病院が取り上げられていた。地域の偏在として年々着任する医師が減り、と同時に診療科の偏在が進み、救急医療や小児医療、外科手術の持続が困難となっているのだそうだ。引退した70代の院長先生が現場に復帰し、当直業務も担っている姿を見て頭が下がる思いをした。院長先生は日本医科大のご出身らしく大学の外科医局に医師を派遣して欲しいと陳情に行く場面も取材されていたが、応対した外科の教授から「最近は外科系を志望する研修医も減っていて学年で志望者も一桁しか居らず、外科に入局しても意にそぐわない赴任先を強要すると直ぐに医局を辞めてしまう」とゼロ回答の反応をされて両者共に厳しい事情が有ると理解出来た。 我々が医師になる頃は一学年120人ほどのうち20人は一般外科に進んでいた事実を考えれば、そこまで外科に人気が無いとは隔世の感が有る。時代は変わり、特に新臨床制度の導入で研修病院を自由に選べる様になった結果、新卒者の待遇も随分改善されたのは若い先生方にとって実に良い事であるが、副作用として人事の強制力が働かなくなり偏在の一因となったのは否定出来ないであろう。地方の国立医大など、新卒者が附属病院に残らなくなった。大学内外からいかに優秀な人材を呼び集めるか、若い研修医を惹きつけ得る利点をアピールしなければ地方の基幹病院ですら生き残れない時代になっている。
 概ね頷ける報道姿勢だったあの特集番組で、偏在の原因について女性アナウンサーと穏やかな物腰の医療評論家が注意深く避けていたのはマスコミ報道の責任だ。医療ミスと断罪する報道の偏りも医療偏在に大きく関わっていたのは「知らぬ存ぜぬタァ言わせやしませんぜぃ」てなもんだ。例として直ぐ脳裏に浮かぶのは今から25年程前に起きた医療事故の報道である。「割り箸事件」と検索すれば直ぐに出てくるが、当時4歳の男児が綿菓子を咥えたまま転倒し、割り箸の破片が脳に刺さってその後亡くなった痛ましい事故だった。幼いお子さんを亡くしたご両親の悲しみはいかばかりで有ったか。経緯を記すと長くなるので略すが、あの当時は全てのメディアが担当した耳鼻科医と病院の対応を袋叩きにしていた。別のもう一例、これまた20年ほど前になるが、奈良県の産科病院で臨月の妊婦が脳出血を起こし、その後胎児は無事だったが母親は亡くなるという不幸な事故が有った。当時は毎日新聞がスクープしてから直ぐに各社が追随し、「頭部CTをもっと早く撮っていれば助かったかもしれない」などと書き立て、19箇所の病院に搬送を断られた結果「たらい回し」という言葉が流行した。どちらのケースも、と言うかあれ以降今般のコロナ報道に至るまで、報道各社の姿勢は「これは行ける」となれば横並びで慎重さを欠くという点において全く変わっていない。あの当時救急医療に携わる少なからぬ数の医師は「果たして自分だったら肝心な情報が与えられていない環境で脳に割り箸の断片が刺さっていると判断出来ただろうか」「そもそも診断できたとして救命できただろうか」と自問した結果、「診療体制の整っていない時間外に専門外の疾患は受けない」挙句には「救急医療から身を引く」選択肢を選んだ。「たらい回し」に至っては受け入れ先の病院が手一杯だったにも関わらず、受け入れていたら死ななかったと非難され、搬送先が決まるまでの数時間で産科医が仮眠を摂っていた、などと許し難い行動のように謗られた。当時奈良県南部に産科医はこの先生一人しか居られず、昼も夜中も働かれていた。前日も、次の日も仕事が山積みなんだ、手が空いた時に少しでも仮眠をとって体力回復しなきゃ保たないだろう、それも許されないのかよ、とあの当時憤ったのをよく覚えている。結果として前者は10年に及ぶ不毛な裁判の果てに被告医師は無罪となったが萎縮医療と言う名の全国的な救急医療の縮小をもたらし、後者は同じく裁判で医師の過失は否定されたが後に産科危機とまで報じられた産科医の減少と、産科病院集約化という名の偏在を招いた。「そんなの報道の責任じゃ無いだろ」「ミスした医者が悪い」という批判は人が亡くなっている以上受け止めるとしても、じゃあ責任を取れ、と言われたら黙って立ち去るしか無かった。医療の偏在は今に始まったわけじゃなく、あの二つの象徴的な出来事をはじめここに書き切れないほど多くの要素が複雑に絡み合って生じている。
 マスメディア対ネットの対立が叫ばれ、どちらが勝った負けたと煽る不思議な論調も散見する。専門性の高い分野で何が起きたのか、事実を明らかにして出来る限りの正しさを追求する営みに勝ちも負けも無いだろう。マスメディアの限られた「中の人」のみ発言を許されていた言論空間は4Kの解像度で開放され、今まで声を持たなかった「外の人」は一旦手に入れたツールをそう易々と手放したりはしない。この状況を混沌であると忌避し、デマゴーグだと指弾するのは今まで情報を操作して世論を意のままにコントロール出来ていた側にとって無理からぬ焦りの証左である。二つの不幸な医療事故、あの頃に今のようなSNSが有ればそれこそ医療系ユーチューバーによる事実ベースの専門的検証と多様な視点がユーザーに提供され、閲覧数稼ぎの誹謗中傷や合理性を欠く論調はリアルタイムで反論を受け淘汰されただろう。ただそれだけでご遺族の悲しみが癒やされ、最前線の医師が踏みとどまって医療偏在の流れが止められたと主張するほど私もナイーブでは無いつもりだ。しかし、マスメディアがあの頃の各社金太郎飴の様な一方的報道姿勢を反省して両論併記の議論を提供しないのなら、学ぶ意欲が有って世界で何が起きているのかを知りたい真摯なユーザーがネットに情報を求めるのは至極当然な時流ではないかと思うのだ。